はじめに
今回は『MAD MAX FURY ROAD(マッドマックス 怒りのデスロード)』の解説です。
ネタバレしていますので、読む際はお気をつけくださいませ。
映画の概要
あらすじ
元警官だったマックスは、荒れ果てた一面の砂漠の上で、正体も分からぬものに車を壊され囚われる。
砦を仕切る集団の大隊長であるフュリオサは、いつものように部隊を率いて、ガソリンを手にする任務のために愛車である『ウォーマシン』を走らすも、途中でその任務を放棄し逃亡を図る。
砦の長であるイモータン・ジョーは、砦からフュリオサが逃亡する光景を目にし、自分の女たちが拐われていることを知って、自らが先頭に立ち全部隊を率いて追いかける。
その部隊の中には囚われたままのマックスもいた。
近未来の荒廃した大地を舞台に、アウトローたちの壮絶なカーアクションが大地を揺るがす。
キャスト・スタッフ・受賞歴
出演者 | トム・ハーディ、シャーリーズ・セロン、ニコラス・ホルト、ヒュー・キース・バーン |
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監督 | ジョージ・ミラー |
脚本 | ジョージ・ミラー、ブレンダン・マッカーシー、ニコ・ラサウリス |
撮影監督 | ジョン・シール |
編集 | マーガレット・シクセル |
音楽 | ジャンキーXL |
受賞歴 | 第88回アカデミー賞(編集賞などを含む6部門受賞) |
公開 | 2015年 |
『マッドマックス 怒りのデスロード』の評価とアクション映画の評価
アクション映画は、過去におよそ数え切れないほど作られてきて、私自身も好む映画ではあるが、評価を受ける作品は残念ながら少ない。
その理由は、『主人公が悪役に勝つ』という定番の芝居ばかりだからだ。
その中に、何かドラマ性を持たせることができないと、人はその作品を見るだけで終わってしまう。
もちろん、作品を見て「スカッとして楽しかった!」と言えることができれば、十分その映画に価値はあるだろう。
賞を獲れなくても、素晴らしいアクション映画はたくさんある。
では、現代に蘇った『マッドマックス 怒りのデスロード(MAD MAX FURY ROAD)』は、完全にアクション映画であるが、その評価はどうだっただろう?
劇場で見たほとんどの観客からの反響は凄まじく、大絶賛の嵐であったことを覚えている。
そして、賞に至っては、アカデミー賞を6部門、さらに他の賞も含め、数々の賞を受賞するという快挙を成し遂げている。
つまり、アクション映画というだけでも、一定の評価を獲得できることがこの作品で証明されたわけだ。
私も『怒りのデスロード』は、圧倒的な迫力、臨場感、爽快感など、およそ現実では体験できない世界を見せてくれて、大変興奮した。
現代に復活した『マッドマックス 怒りのデスロード』という映画は、アクション映画界の希望の星になったことであろう。
『マッドマックス 怒りのデスロード』の物語とは? その1
『マッドマックス 怒りのデスロード』の物語は、とても、とても、とてもシンプルだ。
フュリオサは、女たちと逃亡を図り、イモータン・ジョーは、必死にフュリオサを追いかける。
言ってしまえば、フュリオサとジョーの追いかけっこであり、映画を要約すると、『出かけて行って、追っかけられて、また戻ってくる』というだけの話である。
よくこれだけのプロットで製作にOKを出せたなとも思えるほど、ストーリーも何もあったもんじゃないが、この見方を少し変えると実は納得できるものになってくる。
それは、各キャラクターの立ち位置から判断することになる。
この物語でキーになる人物たちは、マックス、フュリオサ、イモータン・ジョーという3人であろう。
ここで、一旦各キャラクター性を見てみる。
亡霊が常にまとわりつき、自分といることで、死を呼んでしまうと考えているからだ。
だからマックスは一人で放浪する。
しかし、そんな悲運にはめげずに、男勝りな性格が幸いして、ジョーの砦の大隊長という器を持っている。
そして、ジョーの支配下に置かれた女たちを救出し、逃亡を図る。
それは、戦いで仲間を救えなくとも気にせず、仲間が死ねばより多くの人間を増やせばいいという、あまりにも非人道的な考えを持っている。
つまり、これらだけの要約で考えると、この物語はフュリオサとジョーの物語であり、マックスはただ巻き込まれただけに過ぎない。
フュリオサには正義感があり、皆をまとめる統率力を持ち、実行力も備わっている。
また、フュリオサが、ジョーの女たちを救おうとする目的の方が、何もしていないマックスよりも崇高に映る。
そうすると、主人公として相応しいのは、むしろマックスよりフュリオサになる。
言ってしまえば、映画のタイトルを『マッドフュリオサ(MAD FURIOSA)』にしても構わないというわけだ。
しかし、そうなるとマックスの存在意義が無くなってしまう。
では、なぜマックスをこれだけ脇役のような設定にしてしまったのだろう?
これを商業映画の観点から考えれば、『マッドマックス』という名の方が売れるからという理由にはなるが、それをそのまま鵜呑みにしたのではつまらない。
『マッドマックス 怒りのデスロード』では、フュリオサが主人公ではいけない理由があるのだ。
『マッドマックス 怒りのデスロード』の物語とは? その2
まず、前提として『マッドマックス 怒りのデスロード』が何の物語なのかを考える必要がある。
先に書いたように、この映画はマックスのドラマよりもフュリオサのドラマに重点を置かれているのが分かる。
フュリオサは正義心を持って、ウォーボーイズたちだけでなくマックスにも戦いを挑む。
また、フュリオサだけでなく、ジョーの女たちや、フュリオサの元仲間である中年の女性たちも、男と戦う。
つまり、『怒りのデスロード』の物語は、『女対男の戦い』なのだ。
だから、目立つのは女たちの強さだ。
この映画で戦おうとする女たちは、皆強い。
戦わずに身を守ろうとする女もいるが、最後には協力し、強い女として描かれている。
そのため、むしろ、ウォーボーイズである男の方が弱く見えてしまっている。
これは、この映画が女性への偏見や社会的地位の格差、差別に対する警鐘を掲げているからだろう。
少々脱線して、世界の女性差別に目を向けてみると、折しもマッドマックスシリーズ2作目『マッドマックス2』が公開された1981年に、国連による条約『女子差別撤廃条約』が行使された。
そして『怒りのデスロード』の前作にあたる、3作目『マッドマックス/サンダードーム』が公開した1985年に、日本で『男女雇用機会均等法』が施行された。
つまり、如何に日本でも近年まで女性への雇用差別が存在していたかが分かる。
また、世界経済フォーラムが公表している『ジェンダー・ギャップ指数』というものがあるが、こちらを見てみると日本は相変わらず低い。(サイトは内閣府のもの)
日本を標準として考える必要はないが、このような指数があること自体、世界を見ても女性への差別が無くなったとはとても言い難いわけだ。
だからこそ『怒りのデスロード』は『女対男』の戦いとして、観客に目を向けさせている。
さて、であるなら、よりフュリオサに主人公をさせても良いのでは?と思うはずだ。
しかし、そのような物語にはさせてはいない。
これは、どうしても女だけでは、狂気に支配された男たちの力には勝ち目がないからだ。
例えばこのように考えてみよう。
フュリオサが、ウォーボーイズを一人残さず倒していくという物語を良しと思えるか?ということだ。
人智を超え、生きとし生けるものを凌駕するほどの力を持ったスーパーヒーローならいざ知らず、フュリオサはあくまで人間の女性である。
筋骨隆々のリクタスに向かおうとする心の強さはあるにせよ、それを倒すとなると、色々と都合よく場面を設定しなければならない。
それも一人ならば良いが多数となると、今度は映画そのものを変えざるを得ない。
だからこの物語では、フュリオサと女たちを理解し、救おうとする男がどうしても必要であり、その役目をマックスにさせたわけだ。
ここに、初めてマックスが主人公になれる理由が芽生えてくる。
ただ巻き込まれただけのマックスに、元警官だったという良心の意識だけでフュリオサや女たちを守らせることができるからだ。
映画の後半、フュリオサが倒れ、マックスは自分の血液でフュリオサに輸血をし、救おうとするシーンがある。
正に、最もマックスが主人公らしく見えるシーンであり、マックスの情緒と寛大で思いやりのある心を垣間見せられるシーンだ。
ここはマックスへの感情移入が最高点に到達するところであり、このシーンがなければ、マックスという主人公の存在意義はなかったと言える。
そして、これら物語全体を含めて考えると、映画の構成としてもう一つ別のことに気づくことになる。
それは、マックスは過去の時代劇やウェスタン映画の主人公と同じ立ち位置であり、とある町のトラブルを解決するための役目であって、詰まるところ『怒りのデスロード』は、舞台が車の上というだけの現代風にアレンジされたウェスタン映画と何ら変わらないのだ。
マックスがいきなり囚われる、あのオープニングの意味
マックスは、オープニングでウォーボーイズに囚われ、イモータン・ジョーの砦に連れて行かれることになる。
そして、マックスは隙を見て逃げ出そうとするも失敗に終わるのだが、その際の慌てぶりと驚きから、マックスが以前にジョーの砦に行ったことはないはずだ。
すると、ここで疑問が生じる。
なぜマックスはウォーボーイズに追われていたのか?
マックスが、ジョーやウォーボーイズに対して何かをしたとは考えにくい。
となると、ただ砂漠を放浪していたら、たまたまウォーボーイズに見つかり追われ始めたと考えるの妥当である。
しかし、その割にはオープニングで車を止めて、自分の車のメンテナンスか何かをしつつも、回想に吹けて立っていたというのは事実だ。
実は、『怒りのデスロード』のオープニングは、物語的にマックスにどのような紆余曲折があったかを、理解しづらいシークエンスになっている。
従って、これは完全に推測にしかならないが、一つはマッドマックスという映画的なカッコよさや、時を経て帰ってきたということをビジュアルとして最初に見せつつ、マックスがいきなり囚われることで大きなインパクトを打ち出したかった。
もう一つは、マックスがジョーやウォーボーイズに何かをして追われる構成にした場合、そちらの説明に時間を取られることになり、第1幕に過剰な情報量を詰め込むことになってしまう。
そうすると、ただの追いかけっこだけの構成には無理が生じてきてしまうので、前提なしにマックスが突然囚われるあのようなオープニングにしたというものだ。
そして、その真意は主人公としての立ち位置から掴めることになる。
多くを語らない主人公、マックス
マックスだけに焦点を当ててみよう。
先にも書いたように、マックスはフュリオサとイモータン・ジョーとの争いにただ巻き込まれただけである。
ウォーボーイズに追いかけられ捕まり、人間ではなく輸血袋としての存在価値しか見出されず、ニュークスが望むイモータン・ジョーを崇拝したいという自己満足のためだけに車に括り付けられている始末だ。
誰かが救ってくれるわけでもなく、高速で走る荒野の中、抗いたくてもできずに二つの勢力の争いを見ているだけに過ぎない。
マックスは主人公ではあるが、主人公らしからず、登場から第二幕に入るまでずっとかっこ悪い。
なぜ、第一幕ではこれほどまでに脇役的な扱いにしたのだろうか?
それは、まさしく観客をマックスと同じ傍観者にしたかったからだ。
これから始まる物語がどんなものになるのか、マックス含めて「お前ら黙ってこのど派手なショーを見ておけ!」と言っているのだ。
無論、そんな脅しには異を唱えたくなってもいいはずだが、度肝を抜く圧倒的な光景が眼前に広がっていくので、私たち観客は「むしろ黙らざるを得ないです」と、いつの間にか納得していることになるわけだ。
では、第二幕からのマックスについて考えてみるが、マックスの目的は果たして何なのだろう?
マックスはどこにも属さないし、誰も頼らず、頼られようとしない。
人を必要としないし、人の側にいたいとも思わない。
マックスの目的は、ただ放浪して生き延びることだ。
つまり、フュリオサもイモータン・ジョーも正直どうでもいい存在である。
そのため、フュリオサからウォーマシンを奪うと、そのまま立ち去ろうとする。
観客もここからどうなるのか?と疑問に思うが、実はウォーマシンを運転するためには、その方法を知らないと走れないことがフュリオサから告げられる。
そしてマックスは、今度はフュリオサたちに巻き込まれることになる。
何とも残念な主人公ではあるが、なんだかんだフュリオサたちの行動の意味を知ることで、元警官だったことへの思いが疼いたのは確かだろう。
その後もずっと行動を共にし、バイクに乗り変えて希望だけのグリーンランドへ向かうフュリオサたちを、ジョーの砦に戻ろうと提案する。
それが、最もフュリオサたちが確実に生き延びる可能性が高いことを知っているからだ。
そして、自らもウォーボーイズたちの勢力に戦いを挑み、フュリオサや女たちを勝利に導こうとする。
映画を見ると、まるでマックスが偉業を成し遂げたかのように見えるが、実は、マックスの目的は一貫して変わっていない。
マックスは生き延びて放浪したいだけなのだ。
しかも、それは結果的に達成されることになる。
一般的なアクション映画の主人公とは、マックスは全くもって似ても似つかない。
その大きな証拠に、マックスは、敵役であるジョーとは一言も交わさず、戦うこともないのだ。
マックスもジョーも、お互い知る由もないまま物語は終わっていく。
これが『マッドマックス 怒りのデスロード』の主人公マックスであり、観客と同じフュリオサたちの戦いの傍観者でしかないわけだ。
フュリオサとイモータン・ジョーの関係性
フュリオサとイモータン・ジョーは、それぞれジョーの砦において強力な権限を持った立場にいるものたちだ。
しかし、意外にもこの二人に接点となるような説明はあまりない。
一体、二人にはどのような繋がりがあるのだろうか?
まず、イモータン・ジョーが話す、フュリオサへのセリフを考えてみる。
ジョーは、砦の外で虐げられた民に、ガスタンクに向かいガソリンを手に入れる任務を任されたフュリオサを紹介した。
その時、フュリオサが大隊長だという事実が分かる。
つまり、フュリオサはジョーの砦において、ウォーボーイズを従わせることができる、それなりの権限を持っているわけだ。
そう考えると、フュリオサはジョーの側近的立場なのだろうと予測ができるが、しかし、フュリオサに目を向けてみると矛盾が生まれてくる。
フュリオサは、「元いた場所から盗賊に連れ去られた」と語った。
その後、どのようにジョーの砦にいることになったかは分からないが、何度も砦からの脱出を試みたとも答えている。
そんな人物を、なぜジョーはずっと大隊長のままにしているのだろうか?
もう一つ不明なのが、フュリオサはジョーを殺そうとする際に「私を覚えている?」と尋ねた。
この言葉をそのまま鵜呑みにすれば、フュリオサはジョーの側にいなかったのか?と疑問に思うが、おそらく実際いなかったのだろう。
何でも前日譚によると、フュリオサはジョーの元でメカニックとして働いていたらしいので、推測しても仕方がないのだが、それでもただひたすら7000日以上、約20年にも渡り怒り続け、常に虎視眈々とジョーを欺く好機を伺っていたことが分かる。
若い女たちを救い、逃げ出そうという固い意思を持って。
タイトルの『FURY ROAD』とは『FURIOSA(フュリオサ)』の怒りなのだ。
凶暴な超アクションを収めた撮影と荒れ狂う世界をまざまざと魅せつける編集の妙
『マッドマックス 怒りのデスロード』は、見たものを圧倒するほどのど迫力アクションシーンが満載だ。
太陽が容赦なく照りつける砂漠の荒野を、車や、トラック、バイクが超高速で走りながら、敵を殲滅せんとするために、己が愛するバイク、車、果てはモンスタートラックであろうと、どんな改造マシンでも盛大に爆走しひっくり返っていく。
そして、ウォーボーイズが炎を纏った槍と爆弾を手に持ち、自らが武器となって相手に突撃しようものならば、辺り一帯は大爆発に飲み込まれ、その熱さはスクリーンを前にした観客にも届きそうだ。
V8の高排気量・高出力のカスタマイズエンジンのピストンに、その餌とも呼べる独特な匂いを放つガソリンがアクセル全開で押し流されれば、乾いた空気中にさらに咆哮がこだまする。
人は吹き飛び、宙を舞い、そして大地に無残に放り出させる。
ど派手なアクションに次ぐアクションが観客の眼前に広がり、現実ではありえない光景にオープニングから一瞬も目を離せない。
スクリーンに広がり続ける炎の嵐のような全編は、まるで、一種のトリップ的感覚に襲われていくような興奮を覚え、自身のアドレナリンが沸き立つことを体感する。
『マッドマックス 怒りのデスロード』のアクションは、こんなにも私たちを興奮の渦へと引き寄せてくれる。
これは、正に映画における最高の撮影と最高の編集が相乗効果を生み出した結果だと言える。
『怒りのデスロード』は、観客には分かりやすく、それでいてしっかりと観客に見せたいものを見せ、そして最後まで気持ちの良いテンポで綴られる。
いたずらにロングテイクを多用したりせず、アクション映画好きな層に素直に盛り上がってもらいたい、狂気な世界を体現して欲しいという意図がしっかりと読み取れる。
撮影と編集の妙が、ここにある。
そして、その中で私が気に入ったアクションシーンはこちらだ。
フュリオサがウォーマシーンを強奪し、ガスタウンから離れ始めた頃、ヤマアラシと比喩された車に乗った違う勢力の奴らが襲ってくる。
ここで、1度目の攻撃をやり過ごした後に、フュリオサが運転している左側から隙を見せて突進してくるヤマアラシの車がいるが、その車をフュリオサとウォーボーイズの一人がボウガンと銃で射ち放つことで、車を爆発炎上横転させることになる。
撮影面で見れば、フュリオサが持つ指揮官としての強さの表れだけでなく、ウォーマシンを止めずにすむギミックを映し、運転席から離れて攻撃するという離れ業と、そして熱さを感じるほどの爆発という見事な撮影だ。
編集面では、秒以下のカットを連続的に繋ぎつつも、きちんと状況が分かるようにし、そして迫力を出すために緻密に構成されている。
『怒りのデスロード』で、フュリオサのカッコよさがひときわ際立っている演出である。
マックスの脳内に話しかけてくる女の子
マックスには何人かの亡霊がまとわりついてしまっている。
その亡霊が現実にいた人物なのか、マックスと何らかの関係があったかは分からない。
マックスにとっては常に悩まされる存在ではあるが、望むに望まざるに関わらず、フラッシュバックとして眼前に立ちふさがるのでどうしようもできない。
そして、その亡霊たちの中でもとりわけ一人の女の子が登場してくる。
では、この女の子が誰なのか?と知りたいところだが、マックスの口からその存在が語られることはない。
分かることと言えば、マックスにとって恐怖の対象だということくらいだ。
ただし、必ずしもその恐怖がマックスにとって悲劇になるわけではなく、時に救世主にもなってくれる。
物語後半、マックスがウォーマシーンのトレーラー上でウォーボーイズと争うシーンで、相手から不意を突かれ、ボウガンの矢がマックスの頭めがけて放たれることになるが、マックスはとっさに左手で頭を覆おうとし、致命傷を避ける。
これは、亡霊の女の子が、マックスに何かを投げられる時の光景と同じでデジャビュであり、詰まるところ、この場面では女の子がマックスを救ってくれたととも解釈できる。
しかしこれは本当に亡霊からの救いの手なのだろうか?
元警官として、救えなかった人々に対する報いを背負いつつも、決して良心を捨てなかったことへの許しからだろうか、それとも死などという安い代償で償うことなどさせないということへの表れだろうか。
どちらにせよ、マックスはまた望むように生き延びることになる。
もしかしたら、マックスが生き延びられてきたのは、いつもデジャビュがあったからかもしれない。
そう考えると、やはりマックスはまた辛く終わらない旅(人生)を続けるしかないことになる。
まとめ
『マッド・マックス 怒りのデスロード』は、情報化の波に飲み込まれた21世紀初頭に、20世紀末の遺物から飛び出してきた巨大な化身として、我々に強烈な爪痕を残した。
その正体は、我々を新たな境地へと誘うほどの、欲望と狂気に満ちた世界だった。
痛快で愛すべき『マッド・マックス 怒りのデスロード』は、21世紀の現代においても『マッド・マックス』シリーズが永遠に不滅であると炎の咆哮をあげている。