映画『アメリ』の解説記事を更新しました!

悲しい物語 映画『ミリオンダラー・ベイビー』が伝えたかった7つのこと

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はじめに

こんにちは。映画大好きシンヤです。

今回はミリオンダラー・ベイビーについて考察してみました。

見る前はロッキーのようなサクセスストーリーな話かと思っていましたが、そうではなかったですねー。

まさかあんな話になるとは良い意味で期待を裏切られました!

それもそのはず、この作品は第77回アカデミー賞作品賞を受賞しています。

作品賞!作品賞ですよ!?

しかもヒラリー・スワンクは主演女優賞、助演男優賞にはモーガン・フリーマン、監督賞はクリント・イーストウッド!!

主要人物全員が賞を貰っているっていうとんでもない映画です!!

ただ、そんなスゴイ映画なんですが、題材が題材なので放映当時は賛否両論があったらしいです。

確かに、見ると慎重に扱うべきテーマなことも分かりますね。

そんなテーマを交え、この記事ではこの映画のより深い部分に突っ込んでいます。

この記事を合わせて見てもらえば、よりミリオンダラー・ベイビーを味わうことができるでしょう。

見ておいて損はない映画ですし、テーマについては自分や周りの人に対しても深く考えておくべき映画でもあります。

ぜひ、見ていない方はご覧ください。

解説にあたって

当ブログの映画ページでは、映画の魅力をより伝えられるように、私の視点で「レビュー」や「感想」を書いています。(ネタバレ含みますのでご注意を!)

例えばこのシーンを見ると、より感情的な配慮があったり、技術的に訴えているなどの意味合いなど、細かい部分などにあたります。もし、お手元に映画があるなら一緒に見てもらえると、より分かりやすいと思います。

もちろん、私自身勉強しながらの分析なので、皆さんとの見方と変わることや間違っていることも多々あるかもしれません。

でも、そこは映画という芸術の感想や意見であり、議論が活発になることはむしろ喜ばしいことだと思っているので、皆さんも色々と思考を巡らせてもらえたらなと思います。

それでは始めて行きます!

概要

スタッフ/キャスト

  • タイトル:ミリオンダラー・ベイビー
  • 監督:クリント・イーストウッド
  • 出演:クリント・イーストウッド、ヒラリー・スワンク、モーガン・フリーマン

あらすじ

元ボクサーであり、今はトレーナー兼マネージャーをしている男。

アメリカの片田舎で貧乏に育ちながら上京してボクサーを目指す女。

その二人を見守る別の元ボクサーの男。

この三人がそれぞれの悲しみを胸に秘めながら、さらに悲しい運命に導かれる。

チャレンジャーがチャンピオンに勝利するというありきたりなサクセスストーリーではなく、ボクサーが抱える厳しい現実に目を向けさせようとするヒューマンドラマ。

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スクラップが語るナレーションの意味とは?

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映画はスクラップのナレーションから始まります。

そのためスクラップが主人公なのかと最初は思いますが、そうではなくスクラップは主人公の友人という立ち位置で登場します。

つまり、この映画では第三者の視点で綴られています。

主人公のフランキーとマギーを、第三者としてスクラップが見守る形でストーリーが進められていくわけです。(主人公がどちらかは、鑑賞者に委ねられていると思います)

大事なのは、スクラップが語りかけている相手はフランキーの娘というところです。

これにより、鑑賞者(私たち)の視点はフランキーの娘という扱いにされています。

フランキーの手紙が娘には届かないのと娘からの手紙がフランキーに帰ってこないのは、鑑賞者からフランキーへは手紙が出せないからだと捉えていいでしょう。

フランキーの娘となった私たちに、フランキーの生涯がどのようなものだったのか、それをスクラップが教えてくれているわけです。

この、人の生涯がどうだったかを語る意味は娘への手紙だけではありません。

鑑賞者に、世にいる高齢者の人の思いや人生を知ってもらおうという意味も込められています。

つまり、高齢者に関心を持つべきだというメッセージが、少なからず読み取れるわけです。

見過ごしてはいけない、ミリオンダラー・ベイビーの大事な要素

この映画では、主要な三人が互いに会話をしている際に見過ごしてはならない演出効果があります。

最初から多くのシーンで見られ、くどいくらいに注目させる表現として使われています。

それは「影」です。

ほぼどのシーンでも、対話をしている二人の顔の半分が影で覆われているのです。

それも極端に暗い影で、まるで嘘をついているか犯罪者のようにも見えてしまうほどです。

マギーが登場する最初のショットからも、マギーに何か裏があるようにしか見えません。

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しかし、その影の意味は物語が進むほど分かってくるようになります。

フランキーとスクラップはボクシングという舞台の上で、大きな夢の代償をそれぞれ払いました。

マギーにはボクシングの道が安全でないことを鑑賞者に感じさせ、その通りの結果をもたらしてしまいます。

互いに傷つき、これからも傷つくことを強烈な影で予感させているわけです。

反対に、マギーの家族の顔には影を落とさせていないことにも注目です。

マギーの家族は生活保護をもらうだけで、自分たちだけのことしか考えていないような思いやりのない性格です。

本来であれば、この家族に暗い影を落とさせてそういう雰囲気にしてもいいのに敢えて明るくしています。

家族の顔を明るくすることで、マギーが抱えている優しい家族の思いを踏みにじり皮肉っているわけです。

大事な家族であっても決して相容れない関係があることを悲しく伝えています。

危うい握手にこめられた真意

フランキーがマギーのトレーナーになるシーンです。

一通りフランキーの説明が終わったあとに、マギーが「交渉成立」と言って握手をします。

その際、数秒ほど二人の横からのミディアムショットになります。

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ここでは全体的に影のシルエットで写しているのですが、握手している腕の真上にスピードバッグ(ボクシングの練習機器)が吊り下げられています。

もう、このスピードバッグがいかにも握手に落ちそうに見えるので、二人の契約には危うい雰囲気があることを感じさせています。(このシルエットは他にも意味がありそうです)

この映画ではこのような象徴的なショットが少ないので見落としがちですが、逆にポンと出てくるので効果的であると言えます。

そしてこの握手を影で見ていたスクラップがあとから映ります。

スクラップは偶然(必然?)にもここで握手を見て、第三者としての立場になります。

そのため、一部始終を見ていたこの映画の語り部となり、フランキーの娘に手紙を出す人間になったわけです。

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残酷なシーンの影にある想い

マギーの父親は犬を飼っていたという話がありました。

その犬は後ろ足が悪くうまく歩けず、それを見ていたマギーと妹は笑っていたというものです。

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これはフレーム内にビジュアルとしては配置されていませんが、あとで繋がるメタファーになっています。

誰でも分かるもので、マギーが脊髄損傷により左足を切断することになったことを表しています。

この映画では悪い人間が罰せられずに、それほど悪くない人間が罰せられています。

現実にも本来助けるべき人がないがしろにされ、助ける必要がない人ほど優遇されている事実があることを、もしかしたら訴えているのかもしれません。

伝えたい「第一のルール」

この映画の主要な三人である、フランキーもマギーもスクラップもみな犠牲者です。

なぜここまでの犠牲者を登場させて喪失感を感じさせるような映画にしたのでしょう?

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ボクシングというスポーツの危険性を暗に伝えているのでしょうか?

おそらくそんな安っぽい考え方では作られていません。

厳しいですが、自らの行動や決断が招く結果に対して、受け入れる覚悟を持たなければならないという意味合いなはずです。

彼らに起こること(起こったこと)は自分で選択した結果でしかないからです。

決して神が手を伸ばしてくれるわけではないのです。

そして、その答えはフランキーとスクラップも言っていた「第一のルールは自分を守ること」につながるわけです。

生きていく上でどんな選択をしたとしても自分を守ることは忘れてはいけないと。

愛する人からの非常な願い

フランキーは、尊厳死を言われたマギーについて神父に相談しました。

マギーの望みである安楽死をさせる方がいいか、生きていても殺していると変わらない状態にさせるか。

神父はそのフランキーの問いに対して、彼女から離れろと言います。

そんなことをしたら(安楽死させたら)フランキーがもう立ち直れなくなるほど深い淵に落ちてしまうからだと。

神父の言葉はもっともだと思いますが、反対にスクラップからは「今マギーが死んでも悔いなく生きたと思うだろう」と告げられます。

フランキーは神父の言葉より友人の言葉を取ります。

しかし、フランキーはスクラップを失明させたことに23年間も懺悔してきたのに、なぜそれ以上の罪にもなってしまうマギーに死を与えようとしたのでしょう?

フランキーはミドル級タイトル戦の前座試合に出る前にマギーに「プロポーズしてやるよ」と言っています。

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鑑賞者にとっては冗談なのか本気なのかを考えざるを得ないような感じでした。

なぜなら、実際に冗談とも言わずそういった顔つきもしていないからです。

マギーもそれについてあえて突っ込むこともしていません。

となるともうお互いに愛があったと考えても良さそうです。

つまり、フランキーには神父の言葉やスクラップの言葉をもらおうがもらうまいが、愛する人の望みを叶える気持ちが勝っていた。

しかし、葛藤の中でマギーに死を与える勇気がないため、フランキーは近くにいる人からの話を聞きたかったというのが本音ではないでしょうか。

自分の娘とは交流を持てないフランキーにとって、マギーは百万ドルもの価値を持った恋人であり娘です。

愛する人が望むならそれを叶えてあげたい。

そう思いながらフランキーは「モ・クシュラは、愛する人よお前は私の血だ」の言葉を伝え、マギーを深い眠りにつかせました。

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希望。そして…

ボクシングジムが最初に映された時、デンジャーという名の若いボクサー志望の男がいました。

パッと見だと特に強くもなさそうであり、フランキーからも相手にされていないような青年です。

そんな弱々しい青年ですが、ではなぜこのデンジャーをナレーションと共に説明ありきで登場させたのでしょうか?

どう見てもこの男がマギーと関係を持つような人物には見えません。

それにどちらかというと周りにコケにされ、いじめられるような性格にされています。

これからのマギーとの関わりで考えれば、このデンジャーがやられたところをマギーが助ける立場くらいでしょうか。

「うん、それなら納得できそう。」とかブツブツ考えてるうちにデンジャーの登場は一切なくなります(笑)

あれ?と思いつつも、ストーリーはマギーの話が中心になりデンジャーのことはもうどうでもよくなります(笑)

そして、後半に入った時に再びデンジャーが登場します。

それもジムにあるリングの上で別の若手ボクサーにボコボコにされている状態で。

ボクシングなので勝負と考えれば誰も口出しも手出しもできません。

しかし、一方的にデンジャーがやられているのでスクラップが止めに入ります。

そしてスクラップが相手に怒り、その相手ボクサーを殴り倒します。

見ている側としてはとてもスカッとするシーンです。

ところが、スクラップが振り返るとデンジャーはすでにいなくなっていました。

鑑賞者としては「あんなに倒されたらやっぱりやっていけないよな」と勝手に思ってしまいますが、なんとエンディングでは消えたはずのデンジャーが戻ってきます。

マギーの運命を考えるとこの映画のテーマは非常に重いものになっていますが、若きチャレンジャーを再度登場させることで希望もあるんだと伝えてくれているわけです。

最初の登場シーンでは誰もが予想だにしないデンジャーという人物ですが、わざわざナレーションとして説明を入れるほどとても重要なキャラクターを担っていてくれたわけです。

「大丈夫かな?」と勝手に心配していたデンジャーに、鑑賞者は逆に心を救われることになります。

しかし、ここで見過ごしてはならないものもあります。

実はデンジャーがジムに帰ってきて「俺やりますよ!スクラップさん!」と言った顔には、最初の登場時にはない強い影が付いてしまっているのです。

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そう、マギーと同じように辛い運命が待ち受けている可能性を示唆して。

まとめ

この映画は悲しい話ではありますが、大事なメッセージを伝えています。

誰もが分かるように、人の死の身近さと人を想う気持ちの大事さです。

そして、必死に生きた人たちが置き去りにされていくことへの警鐘も鳴らしています。

日々ありきたりに過ごす私たちに「もっと人を見て、もっと人を大事にしろ」と言っているように感じます。

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