それは天使か?小悪魔か? 映画『アメリ』で味わう幸せという名のフルコース

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はじめに

こんにちは。管理人のシンヤです。

今回は『アメリ』(Le Fabuleux Destin d’Amélie Poulain)の解説です。

ネタバレしていますので、読む際はお気をつけくださいませ。

(2019年4月に大幅加筆修正しました)

映画の概要

あらすじ

アメリは子供の頃から空想癖だ。

空想と現実の境界が曖昧な感覚で生きており、そんなアメリが他人の隠された宝箱を見つけたら黙っているわけにはいかなかった。

アメリは自ら行動に出、その宝箱を隠していた本人に届けることに成功し、本人が喜ぶ姿を見て感動を覚えてしまう。

そしてアメリは、水を得た魚のように隣人たちに更なるおこないを続け、幸せになってもらうきっかけを与えていく。

それは、あたかも天使のようであり、小悪魔のようであり。

アメリは自分も幸せになりたかったから、自らにもおこないをしてみた。

しかし、それは単純にはいかなかった。

アメリの幸せには自分の力だけでは足りず、想う人の手助けが必要だったからだ。

キャスト・スタッフ・受賞歴

出演者オドレイ・トトゥ,マチュー・カソヴィッツ,セルジュ・メルラン,ジャメル・ドゥブーズ,ドミニク・ピノン,クロティルド・モレ,イザベル・ナンティ,ユルバン・カンセリエ
監督ジャン=ピエール・ジュネ
脚本ジャン=ピエール・ジュネ
撮影監督ブリュノ・デルボネル
編集ハーヴ・シュナイド
音楽ヤン・ティルセン
公開2001年
受賞歴セザール賞(作品賞、監督賞、音楽賞、美術賞受賞),カルロヴィ・ヴァリ国際映画祭(グランプリ受賞)

空想癖であっても、心優しい女性アメリ

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アメリは、親からの教育や子供時代の環境により、一風変わった性格の持ち主として育った。

それは空想癖という性格で、現実の中にアメリなりの独自の世界観を作っていた。

空想を良しとするか、悪しとするかは置いておいて、実際にアメリのように空想にふけることはあなたにも経験があるだろう。

誰であれ「こうなると良いな、こうなりたいな」と思うことは、普通に人生を歩んでいれば誰しもが考える。

さらに言えば、空想をキーワードにした『アメリ』という映画が作られた以上、それは万国共通であることも分かる。

そうした事実をさらに掘り下げていきたいと思い情報を探してみたら、空想とは違うが病的な意味合いではない『妄想』に関するデータを見つけた。

現実逃避のように、『こうだったらいいのに』ということを延々と想像してしまう。

トレンド総研:女性の“擬態化”に関する調査(資料はPDF)

この調査は妄想と言っているが、各個人が自分についての内面を捉えている内容であり、それはは言わば『空想』である。

また、日本人を対象とした調査なので、アメリがいるフランスとそのまま照らし合わせることはできないが、このデータを見ると、アメリと同年代の20~30代の女性は、56%の人が「妄想癖」だと言う。

つまり、日本人の若い女性の半数の人は何かしら自分の「都合の良い世界」を妄想(空想)しており、普遍的であることが分かる。

もちろん、これは女性に限ったことではない。

男性の場合、おそらく9割の男が「都合の良い世界」を空想しているのは間違いないだろう。(言い切ります!)

つまり、空想や病的ではない妄想自体は女性であれ男性であれ、日々人々がおこなっている習慣のようなものであり、アメリを特別視することはない。

そればかりか、特にアメリの場合はちょっと変わった環境で育てられていたにも関わらず、その環境や親について憎悪のような感情を持っていないことが素晴らしい。

むしろ自分(アメリ)に対し関心を持たない父親であってもきちんと気遣い、心から愛情を持って接している非凡な女性である。

アメリのこうした点は、たとえ少々逸脱した空想癖であったとしても、アメリという純粋な女性の魅力の一つになっていると言える。

三人称のナレーションが物語を絵本のように感じさせる

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この映画『アメリ』では冒頭からナレーションが入り続ける。

決してナレーションが入る映画が珍しいというわけではないが、特筆すべきなのはそのナレーション内容と映像である。

映画『アメリ』の冒頭は、フランスのモンマルトルの路上にハエが止まり、車に轢かれるというとてもショッキングな映像から始まり、丘の上のレストランのテラスで風が吹きテーブルの上の二つのグラスを魔法のように踊らせて(倒れない!)、トリュデーヌ街に住む親友の葬儀から戻ったコレール氏は住所録から名前を消していた。

そして、このどうでもいい出来事と同時に、なんとアメリの父親であるラファエル・プーラン氏の精子が母親であるアマンディーヌの卵子に、ちょうどその時到達していた、という具合で始まっていく。

こうした独特の映画の入り方だけを見ても、映画『アメリ』が只者ではないことが分かる。

そしてここからは、アメリの両親とアメリの成長期における教育と環境についての説明が怒涛のようになされていく。

その後も登場人物が現れるたびにナレーションは入れられ、ほぼ終盤に向かうまで語られる。

そして、肝心なのはこのナレーションが「アメリ」本人や他の登場人物ではなく、第三者に設定されていることだ。

ナレーションが入る映画は多いが、大抵は主人公かその主人公を見守る人物というのが多い。

したがって、そのナレーションを行なっている者は映画内にも登場してくることになる。

ところが『アメリ』では、この第三者がスクリーン上に出てくることはなく、あくまで『アメリ』という物語を三人称の視点で語っていることになる。

この三人称のナレーションの表現の場合、観客には読み聞かせのように感じるので、まるで映画とは言え絵本が読まれているようにも感じられる。

すると、この三人称のナレーションのおかげで現実感が少し薄れることになり、アメリ自身の空想癖と共に、映画自体がその空想を表現したコメディチックなものとして表現できるわけだ。

そうして、作り手はこの独特な世界観を楽しんでもらおうとしている。

仮に、もしアメリがこの作品全体のナレーションを行なっていたら、おそらく空想の世界なのか現実の世界なのかがもっと曖昧な物語になってしまっていただろう。

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アメリが望む二つの目的とその構成手法

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アメリには目的が二つ作られる。

一つ目は『自分の世界から外の世界に飛び出したい』という願望であり、二つ目は『ニノという人物に逢いたい』だ。

一つ目の『自分の世界から外の世界に飛び出したい』の実現方法は、アメリが隣人たちに幸せになるきっかけを与えることだ。

映画『アメリ』に登場する人物たちは、正直風変わりな人々ばかりである。

主人公のアメリを始め、父親のプーラン、写真集めをするニノ、外に出ない絵描きの老人レイモン、カフェで働くシュザンヌ、ジーナ、ジョルジェット、元ジーナの恋人ジョゼフ、食品店を経営するコリニョンとそこで働くリュシアンなど、一人として一筋縄ではいかない性格の持ち主だ。

アメリはこれらの人々に、その人にまつわるきっかけを与え、背中を押したり助けてあげようとする。

必ずしも良いおこないばかりではないが、アメリにとっては達成感を優先し、行動を起こし続ける。

その根源的な思いは、『自分の周りにいる人たちを幸せにしてあげたい』という純粋な気持ちと愛情からだ。

そしてもう一つの目的『ニノという人物に逢いたい』は、読んで字の如しである。

この二つの大きな目的を柱にして、物語は交錯しながら進んでいく。

ところで、映画『アメリ』はどうしてニノに会うだけの物語にしなかったのだろう?

例えば、アメリはニノのことをひたすら探し、様々な障害を経ていくというようなストーリーもできたであろう。

しかし、そうはさせていない。

やはりその理由は、アメリという女性の性格を表す物語が優先されたからであろう。

アメリが隣人たちを幸せにする、その上でアメリも幸せになる。

このような、二つの目的を作ったことでただの恋愛物語ではなく、同時に隣人たちの奇妙な話が盛り込まれた、より密度の濃い物語になったというわけだ。

そして、隣人たちのストーリーとアメリ自身のストーリーを複雑に入り混じらせた構成のおかげで、アメリとその他の登場人物たちの関わりを強く感じる物語になっている。

これもまた映画『アメリ』の特筆すべき点であり、魅力の一つでもある。

二つの色で分けるアメリの空想世界

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映画の世界を色でデザインしようとする作品は少なからずある。

特に、これは世界を隔てる場合に効果的な演出技法だ。

そして、この色の効果は映画『アメリ』にも使われている。

『アメリ』を見るとあなたもパッと見で分かると思うが、映画の世界が極端な色で彩られていることに気づく。

背景の至る部分はもちろんのこと、服やアメリが使用する小道具に至るまで、映画の中で目で見えるもののほとんどには、ある二つの『色』が多く使われている。

その二つの色とは言わずもがな『赤』と『緑』である。

赤と緑は、色相環図で見れば正反対の色であり、補色という関係だ。

映画『アメリ』では、この二色をとにかく強調してあらゆるものがデザインがされていることが分かる。

では、なぜこの『赤』と『緑』を強調して使用されているのだろうか?

ここで、まずこの二色の視覚的イメージを考えてみよう。

  • 『赤』:燃える、熱い、危険、怒り、興奮、情熱、積極的
  • 『緑』:やすらぎ、やさしい、安全、若い、自然、癒し

簡単に二つの色のイメージをまとめるとこのような感じだろうか。

これらをこの映画に当てはめて考えてみると『赤』は情熱、『緑』は安らぎなどが妥当そうである。

そしてここでアメリの性格を考えてみよう。

繰り返すが、主人公のアメリは大の空想癖だ。

アメリは子供のころの教育と環境から、成長時代に少し問題を抱えてしまったため、空想の世界にこもるようになってしまった。

そして、そのせいで物事を『好き』か『嫌い』かという、どちらかと言えば両極端な考えを持ってしまっている。

しかもそれは自分ばかりか、他人の好き嫌いにも干渉したくなるほどだ。

また、アメリは『人』と『人』、『男』と『女』など、もともとが二つに隔てられているような世界観を好む傾向にある。

つまり、キャラクターたちの性格と、アメリが考える世界が二つに分けられているので、その表現手法として対になる『赤』と『緑』という二つの色に分けているわけだ。

そうすることによって、空想癖であるアメリが感じている世界観を、私たち観客にも感じてもらおうとしている。

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アメリはポジティブな感情を手にいれていく しかし、彼女自身への行動となると…

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アメリは、周りにいる人たちに幸せになってほしいと願い、その人にまつわるきっかけを与えようとする。

その結果はどうあれ、このことはアメリにさらに行動を起こさせる動機になっていく。

行動はポジティブ及びネガティブな強化によってかたちづくられる

B・F スキナー

これは、『オペラント条件づけ』という実験で有名な、B・F スキナー(Burrhus Frederic Skinner)という心理学博士の言葉である。

B・F スキナー博士は、その発明内容や発言により、その時代の人にとってはあまり好意を持たれない人ではあったらしいが、それでも心理学への影響を及ぼした人物の一人である。

詳細は省くが、スキナーの動物を使った実験では、ある課題を達成すると餌を得られるというもので、つまり課題を繰り返すことによってより餌を得ることができるということを理解できれば、それはポジティブな心理の強化へと繋がるというものである。

アメリは隣人たちに対し行動を起こすが、それはアメリ自身にとって一つの達成感となりポジティブな反応へと変わる。

そして、さらにポジティブな反応を求めようとすることで、そうした行動をまた誰かに対して繰り返すことをする。

まとめれば、ポジティブな行動が新しいポジティブな行動を生んでいるわけだ。

とはいえ、現実の世界で生きる私たちと同じ、いくらポジティブな考え方を持っていたとしても常にポジティブな出来事になるとは限らない。

アメリも他ならぬ自分に対してだとそう上手くはいかないというのが、映画『アメリ』の特徴でもあり現実味を感じさせる部分でおもしろい。

唯一アメリのことを理解していたレイモンという特別なキャラクター

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映画『アメリ』では、前章までに書いたように、冒頭からアメリをはじめ主要なキャラクターたちについてナレーションで語られていく。

しかし、説明だけならいざ知らず、その内容にはどうでもいい個人の性格までもが暴露されていく。

なぜこのような細かな性格まで語られる必要があったのだろうか?

その理由はあなたも思っている通り、アメリ自身の性格と、隣人たちの性格、そしてアメリが彼らに起こす行動との関連性を明らかにするためである。

まず、前提としてこの映画『アメリ』は二つの目的を主軸にしながら、構成としては複数のシチュエーションが交錯するどちらかと言えば複雑な物語になっている。

つまり、アメリと関わる登場人物たちは逐一入れ変わることになるので、各登場人物たちの性格を最初からしっかり示して、最初から人物たちへの感情移入度を高めてもうおうとしているわけだ。

人物たちの性格を明らかにしないままいきなり個々の話に入っていく場合、観客はおいてきぼりをくらう羽目になりやすい。

その最たる例が隣人のレイモンである。

レイモンは、外に一切出ずに絵を描きながら暮らしている老人で、周囲からは骨が脆い『ガラス男』というあだ名で広まっている。

このレイモンの最初の説明はアメリの空想から始まっており、どちらかと言えばミステリアスな雰囲気を醸し出し、彼の素描についてはあまり映されない。

それにより、観客はレイモンに感情移入を持つことがない状態のままで、突如として「ブルトドーだ」というアメリへのセリフからレイモンの話に進んでいく。

そうしてレイモンとアメリ、レイモンとリュシアンという二つの関係性だけを経ていく中で、レイモンという人物の性格をだんだんと表していき、最終的にはアメリに大事なことを助言をするような立場へと変わっていく。

レイモンの最初の説明だけがミステリアスに、逆説的に言えば適当に作られている理由は、観客にレイモンの感情移入をさせるわけにはいかないからだ。

なぜなら、レイモンだけがアメリの『魔法』を見破れるキャラクターとして描かれることになるキーマンだからだ。

その上でレイモンのポイントとして捉えておきたいのは、レイモンが『外出しない』・『絵を描く』という二つの設定だ。

外に出なければ他人との接触は避けられ、絵を描くことは抽象的な会話となり、彼の複雑性は減る。

複雑性が減れば、レイモンというキャラクターに曖昧さを残すことができ、それはミステリアスな雰囲気を漂わせられる。

このように、『アメリ』の中でレイモンだけは特別なキャラクターであるというわけだ。

アルバムに写っていた複数の同じ顔の写真が呼ぶミステリー

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アメリがニノのアルバムを拾って、そのアルバムを隣人のレイモンと見るシーンがある。

アルバムのいくつかのページには、同じ顔の人物の写真が数枚貼られていたというところだ。

アメリもレイモンも語りながら『一体誰なのだろう?』と思うが、結果的には何てことはないキャラクターだということがあとで分かる。

ただ、ここで重要なのはミステリアスな雰囲気を醸し出しているところがポイントなのだ。

その理由は、アメリがこの写真の人物に対し「死んで忘れ去られることを恐れている」と言ったことに起因する。

そしてアメリは、写真の人物が「写真としてこの世界に残りたい」という意味が込められているとも語る。

この時、このアメリの言葉のせいで、実は観客にも魔法がかけられてしまう。

観客は「この人物が誰なのか?」と考えることなく、何となく「ふ~ん」と信じてしまう状態になるからだ。

その理由は、ここまでの間に観客自身がアメリの空想の世界に引き込まれてしまっており、何も疑問に思わなくなってしまっているからである。

この部分が、この映画『アメリ』のおもしろいポイントの一つでもある。

それまでの演出と雰囲気だけでこの後に続くミステリーを起こしているわけだ。

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『対立』や『サスペンス』がなくとも、映画『アメリ』がおもしろい理由

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物語として見たとき、対立する相手や邪魔をする者を置いた方が観客の心理に訴えかけることになり、より盛り上がるのは間違いない。

ところが、映画『アメリ』には、アメリ自身に対立する相手というものが存在しない。

アメリは特に誰とも争わず、ニノを巡った恋のライバルが現れるわけでもない。

食料品店のコリニョンに対して、コリニョンの家に様々ないたずらをするが、それはアメリと対立しているわけではない。

アメリが、リュシアンのことをいじめるコリニョンを一方的に敵視しているだけである。

このように、映画『アメリ』には『対立』する相手が存在しないので、特にハラハラドキドキする『サスペンス』というものは起きない。

もちろん、アメリの内なる世界を見せる映画でもあるので、サスペンスなどなくて良いという考え方もあるだろう。

また、アメリについては誰かと揉めたり争えるようなキャラクターでないことは初めから伝えられており、観客もそのようなアメリを望んでいない。

したがって、映画『アメリ』を見れば、以外にもサスペンス的な展開は一切なく、安心した映画であることに気づく。

ただしこの場合、一歩間違えば何の印象にも残らないというレッテルを貼られる諸刃の剣でもある。

そうしたことからも、映画『アメリ』の秘訣は、複数の人物に焦点を当てた物語にしていることだ。

しかも、登場人物たちにちょっとクセのある性格と暮らしぶりを徹底させることと、物語の中で登場人物たちの話を交互に都度変えることで、サスペンスがなくとも緊張感を保とうとしているわけだ。

物語の構成に工夫を凝らせば、敢えて対立する存在を描かなくてもドラマチックになるということに注目したい。

アメリとニノはお互いを探す ガラスの靴の持ち主を見つけるかのように

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アメリは、自分のアパートに隠されていた宝箱を見つけて、その持ち主を探そうとする。

そして、食料品店のコリニョンに以前住んでいた人物を聞こうとすると、コリニョンの両親に聞いてほしいと言われ、両親の家まで行く。

コリニョンの両親はアメリを迎え入れ、以前住んでいた人物はブルドトーという名前であることが分かる。

その帰り、アメリは地下鉄のプラットホームに入ると、音楽が鳴っているのに気づき、それは目が不自由な老人がレコードで音を流していることに気づく。

そして、アメリはそこで初めてニノを見る。

ニノは証明写真機が設置してある床と機械の隙間に金具を差し、捨てられた写真を漁っていた。

アメリはニノを凝視するもすぐにその場を立ち去る。

対してニノはアメリを見ても動ぜず、また隙間を漁る。

こうしてアメリとニノは偶然出会うことになる。

日が経って、駅でたまたまアメリはまた写真機と床の隙間を漁っているニノを見つける。

しかしこの時のアメリは以前とは違った。

アメリの心臓は瞬時に脈を打ち始め、高い鼓動に身を襲われる。

アメリはニノに一目惚れをしたのだ。

そのままアメリは微動だにできないまま、ニノはアメリの方をじっと見つめる。

しかし、実際にはその視線はアメリではなくアメリよりも後ろの男へと向けられていた。

アメリは、ニノがアメリには一瞥もくれていないことには気づかないまま、いきなり歩み寄ってくるニノに期待と不安を感じる。

ところが、ニノはそのままアメリの横を素通りして、本来ニノが見ていたアメリの後ろを歩いていく男を追いかける。

その光景を見ていたアメリはふと我に帰り、そのまま行ってしまうニノの後を付いていく。

こうして、最初はアメリがニノを追いかけることになり、ニノを突き止めようとする。

その後、紆余曲折を経てアメリからアルバムを受け取ると、今度はニノがアメリを追いかけるようになっていく。

この追いかけ方が実におもしろい。

二人の追いかけ方はまるで童話の『シンデレラ』そのものであるからだ。

ニノは、証明写真機の周辺で集めた他人の証明写真を入れたアルバムを落とし、アメリはそれを拾う。

そして、アメリはニノが働いている店に赴き、そのままアルバムを返そうと思っていたが、その時はそこにおらず、遊園地でバイトをしていると聞き、向かう。

しかし、遊園地でもニノにすぐ会えないことを知ると、置き手紙を残す。

そうして、次の日にニノにすぐアルバムを返すと思いきや、ゲームの如くニノを遊園地で弄んだあと「わたしに、あなたは、会いたい、?」と写真に書いた言葉と共にアルバムをニノに残す。

ただ、この時アメリは場所と時間を告げなかったせいで、本当は簡単に出会えるはずの機会を失い、ニノの方からアメリを探し始めることになってしまう。

そして、ニノの方から「いつ?どこで?」という張り紙を駅などに貼ってあるのをアメリが見つけると、わざわざマスク・オブ・ゾロのコスプレをして写真を撮り、メッセージを残した写真を破って写真機の床下に捨てニノに拾ってもらおうという、また面倒なことをする。

このようにアメリとニノは『ガラスの靴』である『写真』を通じて、シンデレラに出てくる王子様のようにお互いを探し求めるわけである。

ニノは何も意図していないが、アメリの場合は完全にゲームであり、空想の世界で生きるアメリならではの出会い方だと言える。

こうして見ると『ガラスの靴』という手法は古典的でありながらも、出会いを遅らせることができるのであれば、ドラマチックな演出に最適であることが分かる。

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アメリが幸せを得るためには…

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アメリは隣人に幸せになってほしいと願い、数々の行動を起こす。

行動を起こせば隣人たちに喜んでもらえ、アメリにとってもそれが何よりの楽しみとして感じられたからだ。

もちろん、その行動が良かった場合もあれば、反対に本人にとっては意味不明な仕打ちにあった人もいる。

そうして、アメリは自分自身の幸せのためにも同じような行動を起こす。

それは、ニノに会うために、わざわざニノをゲームのようにもてあそぶことだった。

そうした結果、アメリの目論見はことごとく外れ、望んでいたニノとの出会いから遠ざかってしまう。

アメリは出会うべきチャンスを逃し、悲しみ、途方に暮れながらアパートに閉じこもり一人でお菓子を作る。

これが本当だったら良いなと空想にふけ、アメリの恋人になったニノが、足りなくなったバニラビーンズをコリニョンの店で買ってきてくれる。

そうしてニノは、お菓子を作っているアメリの後ろの壁まで忍び足で近づき、アメリを驚かそうと企んでいる。

アメリはそれを嬉しく想像するも、でも、そんなことは……ない………。

ところが、奇跡が起こった。

ドアのベルが鳴り響き、突然ニノがアメリの家を訪ねてきたのだ。

でも、アメリはドアを開けない。

開けることができない。

だけどアメリはそっとドアに耳をあてる。

同時にドアの向こうにいるニノもドアに耳をあてる。

しかし、アメリからの返事がないことが分かると「また来ます」と置き手紙をドアと床の隙間に置いて、またアメリから去って行ってしまう。

アメリは窓のカーテンをそっと開け、階下の道路に目を下ろしながら、ニノが去っていくのを見つめる。

また、会えなかった…と、アメリはうつむくと、突然電話が鳴る。

かけて来たのはレイモンだった。

レイモンは開口一番アメリに「寝室に行け」と促す。

アメリもその通りにして寝室に入ると、テレビの周りにろうそくがたくさん飾られてあるのを見つける。

そしてアメリは、恐る恐るビデオのプレイボタンを押しテープを再生し始める。

そこにはレイモンの顔がアップで映り、レイモンはテレビ越しにアメリに話しかけ始めた。

レイモンはアメリの全てを悟っていたかのように「チャンスを逃すな、彼を捕まるんだ」とアメリを励ます。

その言葉を聞いて思い立ったアメリは、アパートのドアを勢いよく開ける。

するとそこには……

という、最後の一連の流れは観客の感情移入度が最も高まり、また観客自身が救われるシーンでもある。

しかしここで重要なのは、結局はニノがアメリを見つけることになったということだ。

アメリはみんなが幸せになるようにと、みんなのために願い行動してきた。

そして自分も幸せになれるよう願っていた。

しかし、この映画では自分から願うだけでは幸せにはなれず、それはアメリも同様で、自分の幸せをもらえる人物が必要なのだ。

そして、その幸せをもらえる人物こそがニノ本人であった。

また、二人の恋の行方を見守っていたのは、アメリが空想の世界に存在させていた他ならぬレイモンだったことを忘れてはいけない。

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まとめ

『アメリ』(Le Fabuleux Destin d'Amélie Poulain)の個人的評価
物語性
(4.5)
作品性
(4.5)
感情移入度
(4.0)
視聴覚効果
(3.5)
視聴価値
(4.0)

映画『アメリ』は、ちょっと変わった、でも純粋な女性が他人のために何をするか、どう行動しようとするかという恋愛物語だ。

そして、アメリのまわりにいる登場人物たちはひとりひとりが個性的なキャラクターであるため、一つ一つのシーンとシークエンスが絶妙なさじ加減で混ざり合い、それはまるでフルコース料理のように堪能できる。

大人の味付けによりで酸いも甘いも苦味みすらも感じるが、見事な調和を感じさせてくれる。

おそらく監督(脚本)、編集は、この映画作りについて相当頭を悩ませたのだろうと思える。

どうしたら、この恋愛物語を映画らしい効果的な映像として作れるかと。

しかし、そんな悩みを打ち消すかのように、『アメリ』は見事に成功した映画になったと言える。

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