はじめに
今回は2000年公開の映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』について考察してみました。
この映画は、ビョークの素晴らしい歌声を聴けるミュージカル映画ですが、一筋縄ではいかない物語になっています。
映画的にはカンヌでパルムドールと主演女優賞を受賞をしている快挙を成し遂げています。
さて、この記事では映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を自分なりにレビュー・解説しています。
独自に『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を考察しているので、この記事と合わせて見てもらえば、より深く作品を味わうことができるでしょう。
この映画は、独特の雰囲気が漂う田舎町に生きる、一人の女性の苦難を描いた作品です。見た後はとても考えさせられる映画になっています。
レビュー・解説にあたって
当ブログの映画ページでは、映画の魅力をより伝えられるように、私の視点で映画の中身について語っています。(ネタバレ含みますのでご注意を!)
例えばこのシーンを見ると、より感情的な配慮があったり、技術的に訴えているなどの意味合いなど、細かい部分などにあたります。もし、お手元に映画があるなら一緒に見てもらえると、より分かりやすいと思います。
それでは始めて行きます!
映画の概要
スタッフ/キャスト
- 監督:ラース・フォン・トリアー
- 脚本:ラース・フォン・トリアー
- 出演:ビョーク、カトリーヌ・ドヌーヴ、デヴィッド・モース、ピーター・ストーメア、カーラ・シーモア
- 音楽:ビョーク
- 撮影:ロビー・ミューラー
- 編集:フランソワ・ジェディジエ、モリー・マレーネ・ステンスガート
- 公開:2000年
あらすじ
アメリカの片田舎に、視力がなくなってしまう病気を患っていた一人の女性がいた。
そして、女性の息子にもその病気の遺伝があり、女性は息子に同じ運命にはさせたくないと密かに手術費用を貯金していた。
しかし、その貯金のありかが隣人に知られてしまう。
『セルマ』という誰にでも好かれそうなキャラクター
『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の主人公、セルマはとても可愛い印象を受けます。
チャーミングで、はにかむ笑顔が素敵です。
ジェフがセルマのことを好きになるのも何となく分かります。
セルマはおそらく結婚していないでしょうが、ジーンという大きい子供がいるためそこそこの大人なはずです。
しかし、彼女には子供のようなあどけなさも残っているので、どうしても気になってしまうような存在にされています。
そして、ミュージカルシーンではセルマが持つ素晴らしい歌声を聴かせてくれます。
繊細な歌声から、迫力を感じさせるような歌声まで独特の声を響かせます。
セルマを演じる『ビョーク』が好きな方にとってはたまらないでしょうね。
さらにセルマを取り巻く周りの人たちからは好意的に見られていて、セルマ自身充実した毎日を送っていると言えます。
それもそのはず、セルマの息子のジーンに自転車が与えられたシーンこそが、もっとも幸せな雰囲気をかもし出していたからです。
セルマ自身、本来であれば、こんな充実感をずっと味わっていきたかったのだと思います。
しかし、幸せはこの一瞬だけしかありませんでした。
『?(はてな)』が止まらないセルマの行動
『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を見ていくと、セルマは意外な行動を取り続けることになります。
同じ敷地内に住む大家のビルから、お金がないという話を聞いた後に、自分には貯金があると告げます。
観客としては「その一言は言ってはダメだろう」と思いますが、ここから物語が始まるので、ある意味観客をドギマギさせるには十分なセリフと言えるでしょう。
しかも、セルマの視力が落ちてくると、段々と観客が望む展開を真っ向から否定するかのように物語は進んでいきます。
ジェフに「車に乗っていかないか?」と言われても歩いて帰ったり、芝居を止めるのにも「やる気がうせたの」と言ったり、リンダに「ビルに迫ったんでしょ?」と言われてもセルマは何も言いませんでした。
つまり、セルマは誰に対しても嘘をつき続けるようになっていくわけです。
まさに観客から見れば、頭の中に『?(はてな)』が止まらない状態になります。
ドギマギどころか、もはや呆気に取られるような感じです。
そして、最終的にはセルマ自身が死を選ぶことになっていきます。
その理由は、嘘をついてでも息子のジーンに目の手術をさせたいという一心のためです。
しかし、この方法は正しくないことが誰の目にも明らかです。
セルマは残念ながら、息子であるジーンへの愛し方がゆがんでいると言えます。
自分が殺人者になってしまうことで、子供と過ごすことが出来なくなるとは思わず、また、子供の将来にも影響が出てしまうということも考えませんでした。
真実を話すことを怖がり、本当に大事なことを見失っていたのです。
セルマはまだ本当に子供で、とても稚拙だったと言えます。
セルマが悟った償い
セルマがビルを殺したことは事実です。
例え事故であっても、その事実からはどうやっても逃れられません。
どんな理由であれ、セルマは罪を犯してしまったのです。
たった一発の弾丸だけであれば、情状酌量という道もあったのかもしれません。
しかし、セルマは何発もの弾丸をビルに撃ってしまいました。
これではもはや、言い逃れすることはできません。
殺意があったと思われても仕方がないのです。
そして、判決は案の定『死刑』というもっとも重い結果になり、セルマは悲しみつつも自らそれを受け入れました。
なぜでしょうか?
ジーンの手術のためでしょうか?
実はそれだけでは無いのです。
罪を犯した点だけに注目すると、その罪を償うことが必要です。
そう、セルマ自身も罪を償わなければならないと心の中で悟っていたのです。
ミュージカルという名の『現実逃避』
セルマは、辛くなったり良くないことが起こると、周りの音を使って『妄想の世界』に飛ぼうとします。
飛んだ妄想の世界は、セルマにとって心の拠り所である『ミュージカル』です。
そして『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の『ミュージカルシーン』は、とても素晴らしいビジュアルデザインで作られています。
ミュージカルシーンだけ、全く別の世界とも言えます。
撮影的にも、全編はカメラを手持ちで撮っているのにも関わらず、ミュージカルシーンだけはフィックス(固定)にしています。
つまり、撮影手法により『現実』と『妄想』の区別をしているわけです。
ただ、セルマ自身に注目してみると、自分にとって好ましくない状況になると妄想の世界に行くということは、結局は『現実逃避』です。
現実逃避であるがゆえに、セルマは妄想の中で自分にとって都合が良いようにしてしまいます。
例えばビルを殺害したあとに「心から悔いている」と歌っていますが、その顔には笑みがあります。
そして「仕方がなかった」とも歌います。
これでは、たとえ罪を悔いているとしても、救いがありません。
なぜ作り手はこのような演出手法をとったのでしょう?
ちょっと脱線しますが、例えばこの映画を『ミュージカルが好きな視覚障がい者が、努力を経て主人公を演じ、芝居を成功させる』という物語だったらどうでしょう?
おそらく、このような物語にすれば観客にはウケがいいでしょう。
しかし、そうはしませんでした。
『ダンサー・イン・ザ・ダーク』は、わざわざ物語の主人公に妄想の中でミュージカルをさせ、より難解な物語として作っています。
セルマのミュージカルが始まるきっかけは、セルマが悩み辛くなった時です。
この物語は、セルマにその辛くなる状況を作らせるために、ただひたすら辛い使命を与えているのです。
こう考えると、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』は非常に残酷な映画とも言えます。
そんな中、唯一救いだと言えることは、セルマが最後に妄想から離れ現実で歌ったことです。
まとめ
解説しておいて何ですが、私自身、実はまだ『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の本当のメッセージや伝えたいことが分かっていません。
『死刑やその法制度に対する警鐘』なのか、それとも『視覚障がい者への配慮の欠如を訴えている』のか、それとも『親子の愛』なのか。
作り手から「どれも当てはまりそうで、どれもそうではない」と言われそうな気がします。
今のところ分かることは、セルマという人物の複雑性でしょうか。
彼女はとてもチャーミングな大人の女性でありながら、その行動はとても稚拙です。
誰がどう見ても彼女の愚かさを感じ取ってしまいます。
しかし、もしかしたら、セルマという人物そのものがメッセージなのかもしれません。
彼女が行動し、そして死ぬまでという生き方そのものです。
良し悪しに関わらず、『こんな人がいる、こんなことをする人がいる』という、そんな多様性を感じ取ってほしいというようなものです。
もしそうなのでしたら、セルマという人物の魅力は如何なく発揮されていると言えます。