1990年代のギャング映画の金字塔!マーティン・スコセッシ監督の『グッドフェローズ』を解説!

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はじめに

今回は『グッドフェローズ』(GOODFELLAS)の解説です。

ネタバレしていますので、読む際はお気をつけくださいませ。

映画の概要

あらすじ

実在したヘンリー・ヒルという人物は、子供の頃からギャングに憧れて育ち、そのままギャングに入って生きることを選ぶ。

仲間たちと犯した罪は数知れず、アメリカを震撼させるほどの大犯罪にも関わりながら、多くの金で華やかな生活を送っていく。

しかし、仲間たちからは禁止されていたヤクに手を出した結果、警察に捕まり、自分たちの悪行を暴露されることを恐れた仲間たちから、保釈中に命を狙われる羽目になる。

ヘンリーはなんとか殺されずにすむようにと、最終的にある行動を起こす。

キャスト・スタッフ・受賞歴

出演者レイ・リオッタ、ロレイン・ブラッコ、ロバート・デ・ニーロ、ジョー・ペシ、ポール・ソルヴィノ
監督マーティン・スコセッシ
脚本ニコラス・ピレッジ、マーティン・スコセッシ
撮影監督ミヒャエル・バルハウス
編集セルマ・スクーンメイカー
公開1990年
受賞歴ヴェネツィア映画祭銀獅子賞(監督賞)、アカデミー賞(助演男優賞)など多数

最後まで心地良いスピード感

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この作品『グッドフェローズ』もまた実に面白く作り上げられている。

プロットとして見れば、主人公が何かを成し遂げる話でもなく、大きな事件や出来事に巻き込まれたような話ではない。

にも関わらず、グッドフェローズは非常に見やすく、約2時間半という長時間でありながら、あっという間にエンディングまで連れて行かれる。

その理由は、非常に洗練されたリズムとテンポ感で構成されてあるからであろう。

見ていて実に心地良いスピード感で進んでいく。

物語の内容自体は、ヘンリーの生い立ちから始まり、ヘンリーやギャングたちがおこなった犯罪、カレンとの結婚生活、刑務所への服役などであり、前述のように実際にはそれほど大きく場面が変わっていくわけではない。

たとえ場所を変えていたとしてもその多くは室内であり、大掛かりなロケセットを屋外に作っているわけではない。

しかし、室内であってもそれぞれの舞台の中に一つ一つのドラマが散りばめられているおかげで、退屈することがない。

それは、常に観客を飽きさせないようにという作り手の魅力的なショットと編集の賜物であり、それは実に功を奏している。

もちろん、見返すことを繰り返せば必要そうにないシーンがあることも分かってはくるのだが、しかし、それでもこのテンポ感はスコセッシ監督の見事な手腕であり、舌を巻く。

ヘンリーという人物の魅力

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グッドフェローズは基本的には会話劇がメインであり、ギャングである仲間内の話と、ヘンリーと妻のカレンとの結婚生活という2軸で描かれている。

ヘンリーにとってはこれと言って大きな対立関係はなく、その生い立ち以外は比較的平凡な主人公であると言って良いだろう。

ヘンリーに特筆するものがあるとすれば、すでに少年時代から持っていたギャング魂と、その生き方である。

一般的な少年がギャングに憧れを持つという時点で大問題であるにも関わらず、ヘンリーはそんなことはお構いなしに自らその世界に足を踏み入れていくからだ。

例えば、ヘンリーの子供時代の家族環境において、低所得であったために生活する上で困窮して犯罪に手を出してしまい、その過程でギャングに入っていったということなら分からなくもない。

しかし、ヘンリーは本当にただ単にギャングに憧れ、ギャングに入ってひたすら悪行を繰り返していくという人生を自ら選んでいることになる。

つまり、ある意味観客からして見れば、ヘンリーのこのキャラクター性自体が魅力的だと言えるわけだ。

もちろん、一般的な感覚から言えばギャングに入ることを選ぶのは決して正しい選択とは言えない。

しかし、そうしたギャングに憧れることができてしまった時代背景と、裏で手を回せばギャングが存在することを良しとしていたアメリカ社会全体のせいで、ヘンリーという人物は作られてしまったと言っても過言ではないだろう。

どちらにせよ、少年時代からギャングに憧れ、そしてギャングとして生きる道を選んだヘンリーの絶頂と転落の人生は、こうして映画にもなり得てしまうほど人々を魅了させてしまったわけだ。

また、この物語早々に自ら選択してギャングに入っていったというシーンがもたらす効果は、観客が自然とこの映画に対し違和感なく没入できるようになることであり、この時点で物語の方向性を明確に提示できている点に注目したい。

退屈にさせないための、その手法

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繰り返すが、グッドフェローズの物語は正直言えばそこまで盛り上がりを見せるような内容はない。

オープニングでショッキングな映像を見せ一定の観客を釘付けにした後は、そのままほとんど同じトーンで後半まで進行し、ヘンリーと仲間たちのギャングとの関わりや、妻のカレンとの関わりを順に描いていくだけだ。

犯罪をするにしても、綿密な計画を練って社会のシステムの裏をかきながら行動をしていくような構成もなく、前触れもなくトラックを簡単に襲ったり、世間話程度の会話だけで夜中にただ空港に潜入しては金を盗んだりと、その強盗手腕自体はほとんど描かれていない。

これは当然、この物語が、如何にして高度なセキュリティを施した頑強な銀行を襲うような、典型的な犯罪方法を晒すような映画にはなっていないからだ。

しかも、ヘンリーがギャングの側としてヒーローのように振る舞うことや、組織の中で何かを大成するわけでもない。

あくまで、若きヘンリーとその仲間たちの人生に焦点を当てているだけである。

それなのに、どうしてこうもグッドフェローズの物語は淡々とした印象を持たず、見ていて退屈にならないのだろうか?

その理由はいくつかあるが、その一つは紛れもなくナレーションである。

グッドフェローズも、監督マーティン・スコセッシの本領であるナレーションが冒頭から最後まで随所に入っている。

ナレーションという効果は、それだけで没入感を高められるのと、シーンをいきなり変える際にも説明として付け加えることができるのでとても活かしやすい。

つまり、これが意味するところは、この映画が『分かりやすい』ということである。

グッドフェローズは見ていて特に何も考える必要がない。

どうやってギャングになっていったのか、どうやって犯罪を犯したのか、どうやってヘンリーはそのような人物になっていったのかと考えなくて済むのである。

伏線もなく、観客に疑問を投げかけるようなこともない。

グッドフェローズもそうだが、マーティン・スコセッシはかなり大人向けの作品を作るのを好む。

しかし、大人向けでありながらもその内容自体は実に優しく作られていることが分かる。

これは正にナレーションによる賜物であり、誰にでも分かりやすく余計なことを考えなくていいようにと作られている。

さらに言えば、盛り上がることがないシーンに対してもこのナレーションというスパイスが加わることで、決して単調にはさせていない。

たとえ俳優たちが黙っている時でさえも、その心境についてナレーションが入ってくるので、観客はその人物の裏の感情を考えずに素直にその表情や仕草を受け止められる。

だから見ていて余計な考えを巡らせることも、間延びした雰囲気を感じて退屈になることもない。

ナレーションを使うことは、観客に物語を分かりやすくさせつつも、実は観客を映画に縛り付けるための一つの効果となっているのだ。

視点を変え、突然違う人物に焦点を当ててしまうという手法

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グッドフェローズの物語の半分は、カレンの物語でもある。

ヘンリーは、トミーが好意を抱いている女性と会いたいがために、その女性の友人とダブルデートをしてもらうようにと、レストランにいやいや連れて行かれる。

そして、連れて行かれたレストランにいた女性がカレンであった。

しかし、当時のヘンリーは仕事第一で(本来の仕事ではないが)色恋沙汰には全く興味がなく、カレンには目もくれない。

ところがカレンに対するこのヘンリーの態度は、カレンをただただ悲しませ怒らせることにしかならなかった。

2度目のダブルデートを平然とすっぽかしたヘンリーに対し、カレンが取った行動は、ギャングの溜まり場であるポーリーの店の前に車で押しかけて、そこに仲間と話していたヘンリーを仲間たちの眼前で怒鳴り散らしたことだった。

その結果、ヘンリーは突然のカレンの態度に面食らいながらも、そのカレンの挑発的な行動に心を奪われてしまう。

そして、そこからカレンとの恋愛は生まれ、二人は付き合いを始めていく。

女性に対し一切気を使わないヘンリーは男としてどうしようもないほど呆れるが、それに対してカレンの行動力は目を見張るほど勇ましい。

そうした一筋縄では行かないカレンにも焦点を当てたことは、グッドフェローズを語る上でとても大きい。

なぜなら、ヘンリーだけではなく、カレン自身の歩みと視点が盛り込まれているからだ。

その最たる例が、ヘンリーとの初めてのダブルデートの時から加わるカレンによるナレーションである。

カレンからヘンリーへの印象や、ヘンリーに対する気持ち、そしてどうやってヘンリーと過ごしていったかなどがカレン自身から語られることになるので、自ずとカレンという女性の想いがそのまま伝えられる。

そうなると観客は、一般的な家庭で育った女性がどうギャングの妻としてどう関わっていくのか、カレン自身に性格の変化はあるのか、ヘンリーとカレンがどのような生活環境を送っていくのか、などなどを気にかけることになってくる。

つまり、ギャングと付き合う女性の生の声をカレンのナレーションによって語らせることで、観客にはカレンへのも関心を持たせられ、感情移入をも促されるわけだ。

ヘンリーだけに語らせずカレンにも語らせることで、観客は結果的に最後まで常に両者を気遣うことになってしまう。

この手法こそも、正にこの映画を『飽きさせない』工夫の一つになっている。

ギャングの怖さをしっかり見せる、極悪人トミー

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イタリア人のトミーは、ジミーの紹介により少年時代にヘンリーと出会うことになる。

そして、ヘンリーとトミーの二人は早くから相棒として組まされていた。

映画の中で、トミーの少年時代は短いながらに映るが、正直そんなに冴えた男のようには見えず、ヘンリーの方がこの世界ではうわ手な印象を受ける。

しかし大人になるとそれが変貌する。

トミーはヘンリーとの立場が変わったかのように真逆の振る舞いを見せ始めるからだ。

トミーは正にギャングらしい口調で相手を怯えさせ、その凶暴性を垣間見せてくる。

仲間たちの前で、自分自身(トミー)のおもしろおかしい話をしていたのにも関わらず、目の前でそれを聞いていたヘンリーがただ笑いながら口にした「お前はおかしいよ」という一言を聞いただけで、トミーは「どこがおかしいんだ!」と執拗にヘンリーを攻め続け、その場を凍りつかせる。

他にも、仲間と賭けをしている場で、トミーが「酒を持って来い」という声が聞こえなかっただけで、店員の足を打ち、しまいにはせっかく足を治療してきたその店員に文句を言われただけで結局殺してしまう。

その振る舞いは正にギャングであり、極悪人そのものだ。

しかし、ここで疑問が残る。

このトミーの話は映画の中で比較的時間を多く割かれている割に、そこまで重要なシークエンスではないからだ。

なぜ、こうもトミーの話を多く入れたのだろうか?

その理由は複合的にはなるが、大きくはヘンリーとの違いを見せるためであろう。

ヘンリーはギャングではあるが、映画の主人公でもあるので、あまり過激な所業をさせるわけにはいかない。

それはヘンリーのおこないによって観客をドン引かせるわけにはいかないからだ。

しかし、それではこの人物たちのギャングらしさがあまり表現できない。

あくまで『こいつらはギャングなんだぞ』というメッセージを明確にしておかないと、どのような人物を対象にした話だか分からなくなり、また、社会に対する警鐘さもなくなってしまう。

そういった意味で、トミーが機嫌を損ねるといきなり怒り出すようにすることで、トミーという人間性を見せつつも、極悪人としての振る舞いをさせて、ギャングの怖さを表現するために多くの時間を割いたのだろう。

こうすることで、ヘンリーとトミーの比較的真逆の人間性が際立つことになり、観客は『この二人に何か怒るんじゃないか?』と、まぁ結果的にはそうはならないのだが、そうした別の関心を持って物語に没入してもらえることになるわけだ。

にしても、ちょっと長すぎません?スコセッシ監督w

アクションはカメラの動きで魅せる

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グッドフェローズの撮影についてじっくり見てみると、この作品ではやたらカメラが動いていることが分かる。

スタティックショット(フィックス)は少なく、登場人物に寄ったり、離れたり、追いかけたりと頻繁にドリーステディカム、またはズーミングを用いて画面に流れを生ませている。

これは正に会話劇が主体である本作において、観客を飽きさせないようにという作り手の配慮だろう。

物語の中に大きな山や谷がないグッドフェローズには、とにかくアクションがないことを感じさせないようにとカメラの動きでアクションを作っているわけだ。

このカメラの動きによってアクションを感じさせる手法は、グッドフェローズについて言えば最適な表現手段であり、実に的確だと言える。

そして、このカメラの動きを大きく利用した面白いシーンがある。

そのシーンは、ヘンリーとカレンが付き合い始めて、ヘンリーの『シマ』にあるレストランに、初めて二人で行った時のシーンである。

気付く人は気付くとは思うが、このシーン、約4分ほどありつつも、実はまるまるステディカムを使ったノーカットショットになっている。

そのショットは、ヘンリーが車のキーをポーターに預け、レストランの勝手口から入って、厨房を通って席に着き、カレンがヘンリーの仕事の話を聞いている間に、ギャグの王者ペニー・ヤングマンのショーが始まるまでである。

もちろん、ステディカムで撮影しているだけなら何ら面白いものでもない。

当時から映画界でステディカムを利用するのは当たり前の手法の一つである。

では何が面白いのか?

実は、このレストランの厨房には入る必要が全くないのだ。

その理由は、このレストランは勝手口から入って行ったあと、まっすぐ進むだけで会場に入って席に着けるような設計になっているからだ。

しかし、グッドフェローズでは、ヘンリーとカレンをわざわざまっすぐ行かせずに左に曲がって、この厨房を通させている。

なぜ、厨房を通させたのか?

一つは、ヘンリーといれば列を待つことなくレストランに入れることと、ステージの目の前に席を牛耳ることができてしまうヘンリーの威厳と風格をカレンと観客に見せつけるためである。

そのためにも、厨房すらも見せることでヘンリーが裏の裏まで知り尽くしているという前提さえも示しておけば、よりその点に説得力が増すわけだ。

もう一つは、せっかくのステディカムを使っているのだから、さらに画面に動きを付けられるようにと、その歩く距離を伸ばして動きの時間を多くさせているためだ。

ステディカムを使うということは動きっぱなしのシーンとなり、それはアクションとして映えることになる。

アクションがあれば観客は集中するし飽きにくい。

たとえ、観客がよく見ればおかしいと思われてしまうのが分かっていたとしても、あえて余計な道を歩かせて、ほんの少しの視覚的説明とアクションを継続させるための手法を取るという考え方を実行してしまうのが実にすごい。

ちょっとおかしい、マフィアの幹部バッツがやられるシーン

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刑務所から6年ぶりに出所してきたマフィアの幹部であるバッツが、ヘンリーの店に来た時のシークエンスである。

バッツが出所していることを知らずに後から入って来たトミーに対し、バッツは昔馴染みであるからとトミーのことを挑発してくる。

それを聞いたトミーは怒り心頭になり口喧嘩になるも、一旦はトミーが退き店を出ていくことでその場は治まる。

しばらくして、閉店した後ジミーとバッツが店のカウンターで話している最中に、突然トミーが再度入ってくる。

そのあとは間髪入れずにトミーがバッツのことを殴り倒し始める。

実は、このシーンもよく見るとちょっとおかしいことが分かる。

まずは、トミーが殴りかかった時に、バッツと話していたジミーは、トミーが殴るのを知って、トミーが殴りやすいようにとバッツのことを押さえ込んでしまう。

そうしてトミーは、そのジミーの助けを借りてバッツをリンチしていくが、バッツが倒れたあとトミーは銃をバッツの口に突きつけているのにも関わらず、そのあとで銃が転がっていくショットがある。

また、そんなリンチをしているトミーをバッツから引き離そうとする人物が映るが、実はこれが誰だかが分からない。

店にいるのはヘンリー、ジミー、トミー、バッツの4人だけであり、ヘンリーはトミーの行動を見て、すぐさま店の鍵を閉めに行っているのと、トミーを押さえるようなそぶりはない。

ジミーは、トミーがバッツを殴ろうとしている際に、前述のようにわざわざトミーに殴りやすいようにしているため、止めに入るとは思えない。

このシーン、実は別のショットが挟み込まれている可能性がある。

そこで脚本を探して見てみたのだが、これについて明確なシーンは記載されていなかった。

JIMMY immediately grabs BATTS’s arms and WE SEE TOMMY smash the gun into the side of BATTS’s head.

ジミーはとっさにバッツの腕を掴み、トミーは銃をバッツの頭にぶつける。

WE SEE TOMMY hit BATTS again and again as JIMMY continues to hold BATTS’s arms.

トミーは何度も何度もバッツを叩き、ジミーはバッツの腕を掴み続ける。

GOODFELLAS Script

この脚本上ではトミーは銃を持っているはずだが、劇中ではトミーは拳で殴ってバッツをすぐ倒しているため、まずこの時点で違う。

そして、この後の脚本では、倒れたバッツを包むマットレスカバーの話になっていってしまい、銃が転がるなどのショットやトミーを離そうとする人物は明記されていなかった。

つまりこれを考えるに、おそらく紆余曲折があって、撮影時に脚本通りにしたショットと、そうではないショットを撮影している可能性があるのだ。

そうして実際の本編には、結局脚本通りの内容にしつつ、脚本通りでないショットの方で激しさを感じるような部分をあえて付け加えて編集したと考えられる。

あくまで想像ではあるが、そうでないとこのシーンが納得しにくいのも事実である。

明確に分かるようにした第三幕とグッドフェローズの裏切り

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グッドフェローズの第三幕は明確に分かるようにされている。

それは、幹部になるはずだったトミーが殺された後からのシーンであり、黒バックに『Sunday May 11th, 1980 6:55am』という白文字のテロップがドンと出てくるからだ。

そして第三幕の内容はとても単純であり、その日のヘンリーの1日を追いかけ、いかに忙しかったかというもので始まり、ヘンリーが麻薬取締局に逮捕され、警察に暴露されることを恐れたジミーとポーリーから、保釈中のヘンリーが逃げる羽目になるというものだ。

そうして、ヘンリーが『いつ殺されるか』と怯えながら送る生活の中で、それは妻のカレンにも及ぶことになり、最終的には自分たちの保身を守るために、長い間共にしてきたジミーとポーリーを警察に差し出すことを決意する。

つまり、ヘンリーは、グッドフェローズという仲間のために生きてきた映画のエンディングを、その仲間である『グッドフェローズ』を裏切るという皮肉めいた終わり方で締めくくるのだ。

ところで思い出して欲しいのは、この物語は実話であり、ヘンリー・ヒル自身はまだこの当時生きていた。

そこで作り手が考えることは、ヒーローでもなく、むしろ当の犯罪者の本人が生きている中で物語を終わりにさせるために、一体どの部分をエンディングにするかべきかという難問についてである。

そういった点では、ヘンリーが裁判で犯罪の数々を証言して承認保護プログラムを受けるところまでにしたというのは、ある意味正解であろう。

これ以上は時間的にも物語的にも引っ張ることは難しいし、この終わり方であれば観客も納得しやすく感じるからだ。

さて、映画的な面で言えば、第三幕の開始のテンポはそれまでよりもさらに早く、ヘンリーが麻薬取締局に逮捕されるまではずっと軽快な音楽が流れていくため、明らかに映画がクライマックスに入ったことを感じさせる。

また、人物たちは動き続け、カメラもそれを追いかけ、さらに言えば車にもカメラを付け、フレーム内が常に動きっぱなしなことが分かるようにしている。

特別なことは何一つしていないのに、テンポと音楽と動きだけでヘンリーの物語を終わりに向かわせている点に注目しておきたい。

まとめ

『グッドフェローズ』(GoodFellas)の個人的評価
物語性
(4.0)
作品性
(4.5)
感情移入度
(4.0)
視聴覚効果
(3.0)
視聴価値
(4.5)

アメリカのギャングの世界を知る術はあまりない。

これは実話なので、おそらくはほぼ同じだとは思うがそれも主要なところだけで、他の裏の話などはあまりないだろう。

彼らは多くの金を使い、欲しいものなら何でも買って華やかな生活をしていると見せられるが、どうしてかその金を残そうとはせずに次々使っていってしまうので、常に裏で稼ごうとしている。

高級なものを買い占め、大金で賭け事に勤しむとどうしてもそうなってしまうのだろう。

まぁ金融機関に預けることもできないだろうし、家に置いておけば危険なので使ってしまった方がいいと考えるのは妥当かもしれない。

どちらにせよ、彼らの生活面だけを見れば憧れを持ってしまうところもあるが、それは違法な手段で手にした金だということは忘れてはいけないし、結局は遅かれ早かれ身を滅ぼすことになるだけなのだ。

映画の後のヘンリーについて簡単に調べてみると、結局、保護観察になったあともヘンリーは犯罪に手を染め続け、カレンとも離婚し、今は帰らぬ人となっている。

この映画が、彼が生きている間にどのような影響を与えたかは分からないが、映画作品として賞賛される一方で、子供の頃から悪行を繰り返してきた当の本人には一般的な暮らしはもはやできなかったのだろう。

きっと彼の心には、現実との狭間でもがき苦しむような、どうしようもないやるせなさがあったに違いない。